危ういトリックスター 後編

食事を終えて洗い物も終えたまもりは、ソファでコーヒーを飲む蛭魔に声をかける。
「私やることがあるから、先にお風呂入っちゃっていいよ」
「…」
何の反応もない蛭魔に内心ため息を吐きながら、自室のドアノブに手をかけた。その時。
「姉崎」
低い声でハッキリと名前を呼ばれて背筋が伸びる。そういえば、ちゃんと名前で呼ばれたのは久し振りだったかもしれない。
「なに?」
振り向かずにまもりは答える。
「テメェ、何か言いたいことがあるんじゃねぇか」
その一言にゴクリと生唾を飲み込んで、恐る恐る振り返ると、いつの間に立ち上がったのか真っ直ぐにまもりの眸を見下ろす双眸と眼が合った。からかい等は一切含まない、実に真剣な眼差しだった。
「別に、何も…」
「何もねぇって態度じゃねぇよなあ」
「何かあったってヒル魔くんには関係ないでしょう。今頃気にされても困ります」
その眼差しとは反対に剣呑な物言いをされて、まもりはつい感情的に言葉を投げてしまった。蛭魔の片眉がキリキリと吊り上がる。
「ほぉ。なら俺が何しようがテメェには関係ねぇよなぁ」
言いながら、ジリジリと近付いてくる。
「テメェが言わねぇんなら、俺から言ってやる」
蛭魔の気配に気圧されて後退りながら、その言葉に心臓が跳ねた。まさか、私が言うより先に、言われてしまうのでは、ないか。全身が総毛立って静かにまもりの眸が見開かれる。
「俺はここを出ていく」
「な…」
呼吸の仕方を忘れるほどの衝撃に、力なく背中をドアに預けた。あぁ私は、大した覚悟もないまま、これ程の事をしようとしていたのか。口角を上げて、意地悪く嗤う。眸はまるで笑っていない。
「テメェも飽きてきたんだろ。奇遇だなぁ、俺も飽きてきた。丁度いいタイミングだろ、就職は」
就職。あぁ、きっともう、何を考えているのかバレているのかもしれない。蛭魔の声は、凍える程に冷えきっている。
「あ、飽きてなんか」
「ないって言い切れんのか?家、学校、部活、四六時中一緒だ。他にどこに行くでもねぇ。飽きないわけねぇよなぁ」
「だってそれは…遊びに行きたいってヒル魔くんに言ったって付き合ってくれないじゃない!アメフトばっかりだし、出かけるにしても偵察かスーパーで、それ以外は興味もないクセに!」
あまりに冷たい言い方をされて、堰を切ったように言葉が溢れ出す。当初の予定なんて棚上げして、眸に涙が溜まっていく。
「テメェはわかってて付き合ってたんだろ」
「えぇ、アメフトに関わってる私に興味があるだけで、私自身に興味がないこともね」
蛭魔の鋭い双眸が眇められ、澱んだ空気が部屋を包む。
「ヒル魔くんが出ていかなくても、私が出ていくから。就職はいいタイミングだもの。内定はね、辞退したの。新しく決まったとしてもあなたに教える理由はないわ」
嘘が混じったが、ここまできたらどちらでもいいことだ。眸に溜まった涙が、重力に逆らえずに零れた。拭うこともせず、一息に想いをぶちまける。
「もう、あなたが好きかどうかもわからないのよ。だから」
「やっと思ってること言ったな」
別れてください。
その言葉は被せられた蛭魔の言葉に掻き消された。その表情はいつもの悪魔の嗤いだ。まもりとの距離を詰めながら言う。
「テメェも出ていくなら尚更奇遇じゃねぇか。やり直すぞ」
「え?な…やり直すって何を…」
気が付けばまもりの目の前に蛭魔は立っていた。まもりの顔の両脇に蛭魔は両手をついて見下ろす。
「同棲」
「……は?」
意味を理解するのに時間がかかった。思考が止まって涙も止まる。眸は見開かれたままだ。
「どういうこと…?別れる話じゃなかったの?」
「誰がンな事いった。テメェが勝手に勘違いしたんだろ」
「な…」
「こうでもしねぇと言わなかっただろうが。肚になに納めたんだかな」
ここまできて気が付いた。知らず知らずの内に、悪魔の土俵に乗せられていたのだ。
「それからなぁ、シンセツな俺はテメェの誤解と嘘を暴いてやろうと思う」
実に愉しそうに悪魔は嗤う。まもりの顔が途端に引きつっていく。
「興味がねぇ奴とアメフトの為だけに同棲までするか。俺はプライベートに土足で上がられるのは嫌いなんだよ。そんな事まで忘れちまったのか?随分耄碌したもんだ」
ケケケと嗤いながら更に続ける。
「それから、テメェはまだ内定承諾も辞退もしてねぇ」
「…!な、ん、で…」
知ってるの、と言おうとして聞くだけ無駄だったと口を噤んだ。驚きに更に眸が見開かれる。涙はもう渇いていた。
「俺はテメェを放逐する予定なんざハナからねぇんだよ。逃げたって構わねぇがなあ、やれるもんモンならやってみろ。時間の無駄だろうがな」
クツクツと嗤いながら左手でまもりの顎を掴んだ。顔が、近い。
「環境が変わる、立場が変わる、住処が変わる。ちょうどリセットできていいだろ?アメフトやるのは変わらねぇがなぁ」
ついでに籍も入れちまうか。その呟きは、喉の奥に閉じ込めた。
そこまで悪魔な笑顔のままで言ってから、スッと笑顔が引いて蛭魔が神妙な面持ちになる。まもりはヒュッと短く息を吸い込んだ。
「だから、俺と付き合いなおせ」
ずるい。こんな時にその顔はずるい。渇いた筈の涙が再び滲み出す。蛭魔も、この停滞した状況を理解していたんだろうか。少しだけ、靄が晴れた気がした。
「…拒否権なんてないんでしょ」
「わかってんじゃねぇか」
 満足そうに笑って、まもりの唇に自分のそれを落とした。柔らかい触れるようなキスだ。まもりは縫い付けられたように動かなかった腕を蛭魔の背中に回して頬を寄せる。事に及ぶ以外で抱擁したのはいつ以来だったか。触れる体温に安堵の息をつく。
「8月中にテメェの両親に挨拶にいくぞ」
「え…」
「ケジメはつけねぇとなぁ」
「!」
本当にどこまで知っているのだろうか、この人は。蛭魔に強く抱き締められて、まもりは胸に額をつける。頭上からイタズラを思い付いた子供のような声が降ってきた。
「さて」
「?」
「『好きかどうかもわからない』と言われマシタノデ、じっくり説明をして差し上げたいと思イマス」
「な…!ちょっと待っ…キャー!」
そう言って蛭魔はまもりの膝裏に腕をいれて、くるりと仰向けに抱えあげると、軽い足取りで寝室へと向かう。
「ま、待って!内定承諾書明後日までに送らないといけないのよ!他にもいろいろ…」
「問題ねぇ。もう送った」
「はい?」
「家の内見もキャンセルしたし、就職課にもメールして内定辞退書は消した。他に何かあるか」
「な…!まさか私のパソコン…!」
「あぁそれからな、あの糞熊の壁紙やめろ。能天気がうつる」
「ちょっと!私のプライバシーは!?」
「誰に向かって言ってやがる」

 ケケケと嗤う悪魔の顔を見やれば、愉しそうなその眸の奥で薄っすら寒気さえする仄昏い光を見た気がして、後々の事を考えたら別れなくて良かったのかもしれないと思った。そもそもトリックスターにトリックプレーを仕掛けるなんて無謀過ぎたのだと天を仰いで、諦めて腕を蛭魔の首に回した。




【倦怠期な同棲ヒルまもで別れそうになるけど蛭魔がどうにかして乗り越える】
リクエスト下さった方に捧げます